Home > 特別展 > 開催中

幸せを呼ぶ福助展
鈴木照夫
平成29年5月7日~8月6日(金・土・日開館展示)

福助はいつの時代に登場したのだろうか

0

 福助は「幸せを招く」として人々に愛されている。大きな頭に髷を結い、裃姿でちょこんと正座し頭を下げる姿はいかにもほほえましい縁起物人形で、実在したモデルがいるとされ、多くの逸話も残されている。

 幸せを呼ぶとされる福助は、いつの時代に登場したのだろう。安永2(1773)年に「福助」が「お福」なる女性を娶る話が『吹寄叢本(ふきよせそうほん)』に掲載されている。また、太田南畝の『一話一言(いちわいちげん)』には「享和3(1803)年に流行した」とある。また、福助の姿を見ると、多くは座布団に裃で正座し扇子を持つ。このような習慣は徳川八代将軍吉宗の時代、享保年間(1716-35)より以前にはさかのぼらないとされ、福助が登場したのは江戸中期の可能性が高い。

福助は京都呉服屋「大文字屋」主人説

0

 「福助」伝説には、いくつもの異説がある。その① 一番有名なのは、京都呉服屋「大文字屋」主人にまつわる話だろう。大文字屋は頭が大きく背が低くて美男子ではなかったが、店の宣伝に熱心で店は大層繁昌した。そして貧民へ施しも忘れなかった。人々はこの店主にあやかろうと、人形を作ったところから、今の福助人形が生まれたという。したがって、京都では今でも福助のことを「大文字屋」と呼んでいる。

摂津国の百姓、佐五右衛門の子、佐太郎説

0

 その② 摂津国西成郡阿部里の百姓、佐五右衛門は大変長生きし、首振り福助(常滑焼)享和2(1802)年に亡くなったが、その子の佐太郎がモデルとの説もある。身長2尺足らずの大頭の子供で、村人との交流もうまくいかない生活に疲れ、新しい活路を求めて東海道を下る途中、小田原で香具師(やし)に誘われ、鎌倉で見世物に出ると評判がよく、江戸両国でも「不具助」をもじった「福助」と名前を付けて登場すると「福々しい名前で縁起がよい」と評判となり見世物は大盛況であった。見物人の中にいた旗本の子供が両親に遊び相手にと「福助」をせがんだ。旗本は金30両を香具師に支払い福助を召し抱えた。それからというもの、旗本の家は幸運続きとなり、大いに寵愛された福助は、旗本の世話で女中「りさ」と結婚し、永井町で深草焼きを始め、自分の姿の像をこしらえ売り出した。その人形が流行したという。「睦まじゅう夫婦仲良く見る品は不老富貴に叶う福助」と言う川柳が残っている。

木曽街道「柏原宿」亀屋の番頭説

0

 その③ 血筋がかなりはっきり遡れる由来譚がある。滋賀の伊吹山のふもと、木曽街道六十九次の宿場「柏原」に、大名御用達のもぐさ屋「亀屋」が今も店を構え繁昌している。ここに「福助」と言う番頭がいた。伊吹もぐさを商う「亀屋」の番頭は正直一途、店の創業以来伝えられた家訓を守り、裃を着け、扇子を手放さず、道行く人にもぐさをすすめた。もぐさを買うお客に対しては、どんなに少ない商いでも感謝の心を表し、おべっかを使わず、真心で応え続けた。そのため店は大いに繁昌して、主人も大層「福助」を大事にした。これを京都伏見の人形屋が耳にして、福を招く縁起物として「福助」の姿を人形にしたという。福助人形は大流行。商店の店先に飾られるようになった。世に伝わる福助人形のモデルは伊吹堂こと「亀屋」の番頭だとする文書が「亀屋」に伝わっている。

0

 この話しも単なる伝承と片づける訳にはいかない。
 浮世絵師、歌川広重が渓斎英泉と協力して木曽の宿場をテーマに「木曽海道六十九次之内」を描いているが、柏原宿では「亀屋」を取り上げ、店頭に飾られる右に巨大な福助人形が、左に金太郎人形が描かれている。この版画集は保永堂・錦樹堂版、横大判71枚で広重47図、英泉24図で構成されており、天保6(1835)年から7年余りかけて制作されたもので、天保13(1842)年までは「亀屋」の店先に途方もない、大きな福助が鎮座していたことがこの錦絵で分かる。ちなみに、現在は2代目の福助が天井につかえるほどの巨体で店先にかしこまっている。

福助の連れ合いの「おたふく」「おかめ」について

0

 福助の由来について、もうひとつ面白い手がかりがある。
 それは福助の連れ合いの「おたふく」あるいは「おかめ」だ。「おかめ」の方は、普通「お亀」と書き、上の「亀屋」と同じく福を招くキャラクターなのだが語源は「おかみ」、つまり巫女にあるという。滑稽な踊りを見せた「天鈿女命(あまのうずめのみこと)」の神像を指した言葉と言われ、能に入って「乙御前(おとごぜ)」という醜女の面に結びつき、そしてこの「乙御前」のような醜女が江戸で訛って「おたふく」になったと言う。その「おたふく」を相方にしている「福助」も江戸時代生まれのキャラクターと考えていいかもしれない。

 「福助」は、享保年間頃から、商店では「千客万来・商売繁盛」。家庭では「出世開運・福徳招来」のマスコットとして、今日まで300年余りの長きに亘り、日本庶民の間に大変な人気があって親しまれてきましたが、近年は「招き猫」に大手を振られて、その座を奪われています。いつか、又「福助」が復活し、人々に愛され続ける日のくることを願っています。

―今回の展示品―

0

 福助人形(常滑、瀬戸、多治見、信楽、京都伏見、一宮起、半田乙川、碧南大浜、長野県中野、福島県中湯川等土人形と本焼人形)99点○福助人形(鉄板製、合成樹脂製)7点○福助人形(マグネット付)2点○和凧(安城市、福助凧)3点○大うちわ1点○風呂敷1点○暖簾2点○ハンカチ1点○伊吹御蓬艾2点○おこしもの木型1点○祝儀・ポチ袋4点○お菓子(エビせんべい、最中)6点○書物6冊、その他チラシ等

―参考文献―

 荒俣宏(福助さん・帯をとくフクスケ)○豊橋市美術博物館(鈴木良典コレクション土人形)○一宮市尾西歴史民俗資料館(尾張土人形、尾西・尾北)