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常設展 2階展示室

常設展

 二階の常設展示室では、名古屋市内の遺跡で発掘された考古資料を中心に土器や石器などの考古資料を時代ごとに展示しています。

 特に荒木自身が発掘・調査研究を行ってきた「東山古窯址群」と呼ばれている昭和区・千種区・天白区の遺跡からの出土品が、展示の中核となっています。古い時代の須恵器(すえき)窯が多く発見されています。

 旧石器時代〜鎌倉時代の考古学遺物を中心に展示しています。天白区で発掘された瓦などもあります。

 

 石器時代縄文時代骨角・貝類、土器弥生時代古墳時代東山古窯址群天白区鴻ノ巣古窯天白区八事裏山1号窯天白区の遺跡の順に展示しています。

展示品目録 Exhibit table

 展示品の詳細は ここをクリック してください。展示品は時々入れ替えています。

縄文土器・縄文式土器 (じょうもんどき・じょうんもんしきどき)

 日本先史時代の土器で、世界最古の土器ともいわれている。

 装飾に縄文(縄で文様を描いた)を用いたものが多いことからこの名前がある。

 ただし縄文のない縄文式土器も多く、逆に縄文のある弥生式土器もあり、必ずしも土器の縄文の有無が縄文式土器の基準とはならない。

弥生土器・弥生式土器 (やよいどき・やよいしきどき)

 紀元前2世紀より紀元3世紀に作られた素焼きの土器。

 縄文式土器より高温で焼かれた。

 赤茶色。壺・甕・鉢・高杯・器台・盤などがあり、口の部分は水平なのが特徴。

 文様はシンプルなものが多く、やがて土師器(はじき)へと移っていく。

 また、土器の表面を赤くぬったパレス・スタイル土器が弥生時代の後期にこの地方を中心に現れた。

須恵器 (すえき)

 古墳時代〜平安時代に作られた容器。

 ロクロが使われるようになり、穴窯で1000度以上の高温で焼かれ、青灰色。

 弥生土器に比べてかたいが、加熱に弱く、調理には使えないので、主に貯蔵用として使った。

 そのほか、日常生活で食事を盛り付ける道具として、また、古墳や祭りの場にそなえるための道具として使った。

須恵器生産の開始時期

 須恵器は5世紀前半、朝鮮からの渡来人によって始まったといわれている。しかし、東日本では5世紀前半の窯は発見されていない。

 この地方で最も古い須恵器が作られたのが猿投窯である。猿投窯は尾張地方南部、名古屋市東部の丘陵地帯から豊田市の西にまで広がる大古窯跡群で、その出発点とされているのが、名古屋市東部の一帯に形成された東山古窯址群である。

 猿投窯には約300基の須恵器窯があったとされるが、古墳時代の窯跡のほとんどは、東山地区で焼かれている。東山古窯跡群で須恵器が焼かれ始めたのは、5世紀半ばと考えられている。

猿投窯(正式には「猿投山西南麓古窯跡群」)

 三河・尾張の境にある猿投山の西南麓一帯を指す。尾張地方南部、名古屋市の東部の丘陵地帯から豊田市の西にまで広がる大古窯跡群。須恵器や灰釉陶器、雑器なども生産された。時代は古墳時代〜平安時代(5〜13世紀)。窯跡は約1000基ほどが知られている。

東山古窯址群 (ひがしやまこようしぐん)

 名古屋市の千種区・昭和区・天白区・名東区にまたがるやきものの窯が数多くみられる地域の総称。

 猿投窯の出発点となった須恵器・山茶碗窯跡群。(5世紀以降継続的操業をしめす東海地方唯一の須恵器古窯址群である。)

 ここでは、このあたりの須恵器の中でも一番古い時代のものがみられます。

 「東山古窯址群」の詳細は ここをクリック してください。

八事裏山窯 (やごとうらやまよう)

 天白区八事字裏山にあった平安〜鎌倉時代の窯。

 ここは、平安時代から鎌倉時代にかけて建物の瓦を作っていました。

 その瓦は遠く京都や鎌倉へも運ばれ、寺などの屋根瓦として使われていました。

窖窯(あながま)について

 5世紀前半に朝鮮半島から伝えられた須恵器を焼く窯です。

 現在の陶器窯は平地にトンネルを作りますが、あな窯は丘陵地に山の傾斜を利用してトンネルを作り、煙が下から上へ登ります。

 下から燃料(薪)を入れう焚き口、燃料が燃える燃焼室(部)、製品が並べられる焼成室(部)、煙が出て行く煙道部に区分されます。

 中央焼成室の内側は粘土が焼け、セメント状になっています。

 窯の外は窯内に焼け残った灰や炭をかきだします。

 焚口を中心に扇状に広がった物を灰原といい、焼きそこないの須恵器片も捨てられています。

 焚き口の前面には灰や不艮品や不良品が掻きだされた灰原(物原)が設けられました。

 平安時代になると火の勢いを強めるために燃焼室と焼成室の境に分炎柱がつけられるようになり、大量生産を目指して次第に大型化していきました。