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「エッセー 木の実集」 500円

木の実集

 荒木實 著 90頁 1995年11月30日 発行 荒木集成館

 考古学、発掘、博物館、そして日常をエッセイでつづった小冊子。

 

 目次:級窓によせて/定光寺の飯盆炊さん/ピラミットの頂点/小さき石ころ/気象台の見学/夢/伊賀越の仇討/ローラースケート/名人達人/詩吟/広小路かいわい/川中の七不思議/八事電車/ミニ博物館/沈黙の世界/考古学者吉田富夫先生/私と考古学/名古屋における考古学の歴史/見晴台の発掘/東山古窯址群の発見/東山古窯址群の経過/荒木集成館の設立と経過/末盛文化の頃の今池の姿/東山古窯址群/(1)古窯址の発見について/(2)調査の歴史50/(3)古墳時代/(4)奈良から平安時代/(5)荒木集成館/ひとこと/注口土器/吉田先生を偲ぶ/葉書/八事裏山古窯跡/経筒外容器/広瀬鎭先生との縁/広瀬鎭先生と愛博協/高蔵遺跡/(1)調査の歴史/(2)五本松町十一番の発掘調査経過/(3)五本松町十一番の遺跡調査拮果/麟麟物語/あとがき

麒麟物語

 きりん物語を伝える前に、きりんとは、東山動物園に居る首の長いアフリカに生息しているキリンでなく、キリンビールの方のきりんである。中日ドラゴンスの竜と同じように、このきりんは空想上の動物である。麟麟(きりん)と漢字でこのように書き、辞典に「古代中国で聖人が出現して、よい政治が行われるときに、そのしるしとしてこの世に現れるという想像上の獣。体は鹿、蹄は馬、尾は牛、顔は狼で、角が一本、全身は黄色で、腹は五色、生物や草は食わないという。胸には火炎が燃えさかり、たくましく豪快な姿に、みる者の心をはずませる。一日に千里を走るという駿馬」とある。前置きはこの位にして、本題は集成館にある麒麟物語に入ります。

第一話

 昭和二十八年九月に襲った十三号台風は、三河湾をつきぬけて、幡豆地方に上陸し、東海地方に多大の被害を与えて去って行った。その2〜3日後に生徒が川で拾ったと云って十糎未満の動物型の置物を持参した。当時、私は毎日のように勤務校・城山中学校の学区内を、西は池下から東は東山のはて西山まで、北は自由ケ丘のはずれから南は八事線まで、色々と調査をして歩いていた。考古学遺跡の発見を主目的としていたが、理科の教員でしたから、動物・植物・鉱物は勿論、目にするもの、耳にすることを確かめる為、山野を跋渉して調査をしていた。中学校の教員として勤めている以上、学区内の自然について生徒達の質問に答えなければいけないと、使命のように考えていた。だから、すぐにその落ちていた所に生徒に案内されて行く。そこは、市バスの自由ケ丘行きが広小路線を末盛と本山の中間で北に折れてゆく道路の五十米位入った所で、その当時はまだ山崎川が流れていた。現在は蓋をして上をバスが通っているから、川は隠れてしまった。その川底で生徒が拾ったわけである。

第二話

 その動物が何物であるか、研究をし始める迄に二十年以上の歳月が流れてゆく、昭和五十三年に荒木集成館を天白区に移転建設することが決定され、その開館記念に、その不思議な置物を、水滴(習字の時に使用)にして記念品として出すとよいということになり、そのいわく因縁の刷り物(説明文)を箱の中に入れる必要が出てきた。その為に、この動物は何であって、どこからこの山崎川に流れてきたのであろうか、謎ときを始めたのである。その得体の知れない動物を千種区のミニ博物館の特等席に置き、来館者にお尋ねしたり、あっちこっち持って行って聞いたりしたが、結果は判明しなかった。ただ首が長いからキリンだと云う人、背中にこぶがあるからラクダと云う人、決定づけるものは中々に見い出せなかった。ところが私が鶴舞図書館で何気なしに鳥羽僧正描く、平安時代の高山寺の「鳥獣戯画」を見ていたら、二巻目にきりん雄雌が並んでいるのが、目に着いた。「これだ」と脳裏にひらめいた。長い間探し求めていた不明の動物であると直感した。ヒントを得た私には、次々と謎ときができてきた。即ち、この動物はきりんの雌であって、今一匹雄が何処かにひそんでいること、背中の瘤と思われたものは、ハスの花の型をした宝珠であることも、また中国及び朝鮮においては王冠などに雌雄が飾りつけられていることなど判明してきた。

第三話

 室町時代の前半(十四世紀)中国の書を読み、麒麟と云うものの考想をふまえて、それを瀬戸の陶工が作り始める。原型作りとして、置物、飾り物、供献物等にする為に、台座をしっかりと作る。そして背中に鞍をのせ、更に宝珠をのせる。しかもそれを蓮の花弁でデザイン化する。雄には顔は馬で頭上に剣を頂く姿、雌には顔は鹿で頭上に雲をのせている、共に天空を馳せ巡っている勇姿である。即ち、「鳥獣戯画」に出てくる麒麟の姿と大体において似ている。陶工は鳥獣戯画の話とか、絵を何らかの型において知っていたのではあるまいか。前飾りには帯に鈴がさげられ、飾り物も整った。原型を造り、やがて量産になってゆき、型流しとなる。陶器造りではなく、素焼き窯で焼かれ、胡粉を塗る土俗的泥人形的な生産と仕上げ方法である。胴体には五色の色がほどこされ、綺麗なものであった。

第四話

 沢山の麒麟を行李詰めにして、背に負った売り子さんが各地に売りさばきに出立する、たまたま末森村の祠を守る神主さんがその麟麟を手に入れる。小さな祠の前に雌雄が並べられる。それから幾十年かたった頃、即ち室町時代後期(十五世紀)に瀬戸の陶工等に陶器造りの狛犬なるものがひろがり始める。その頃末森村の神社も大本殿を新築しその前に新しい狛犬があーうんの型で門前に据えられた。勿論小さい祠の麒麟はそのままに、それからまた幾十年の歳月が流れ、今度は本殿が末森城跡の城山上に移転していく、小祠と麒麟は据え置きのまま。やがて暴風雨が小祠を襲い、麒麟は流されてゆく、やがて土中に埋もれて、また幾十年の歳が流れて、昭和二十八年九月の十三号台風で山崎川の川底に流れてきた。

(南山中学高校友の会「南悠」第三号一九九五・五・二五)

あとがき

 さきに歌集の「木の実集」を出版して幾年か過ぎた。歌集の場合は毎日の日記の中から集めたが、この随筆集は、あちらこちらと投稿した、文集や小雑誌に出して頂いた本を大切にしまっておいたものからコピーしたものである。

 昭和二十三年に名古屋市立城山中学校の教員になれた。戦争も終って平和になって、生徒達と一緒になって、ガリ版刷の文集を作るようになって、その中に投稿して楽しんで造ったものが年々重なってゆき、やがてタイプ印刷になり、ワープロへとうつってゆく、そして私も徐々に年輩となり遂に退職してからは、何処かの研究集録や雑誌に運よく投稿できたものである。そうしたものを一度集めて、くぎる必要があると思い、まとめることにしました。

 平成七年秋  荒木實 記