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土器のかけらに魅せられて 非売品

土器のかけらに魅せられて

 平成3年6月1日 荒木集成館発行 A5版 12頁

 平成3年3月31日・4月1日・4月2日、NHKラジオ「人生読本」に荒木實が出演したのを記念して友の会など関係者に配布したものです。

 荒木集成館のおいたちを知ってもらうために復刻しました。是非お読みください。

 

 平成3年6月1日発行

 

 著者 荒木實

 名古屋市天白区中平5-616

 発行 荒木集成館

 

 印刷 有限会社アイコー社

 名古屋市瑞穂区苗代町29番20号

1 土器との出合い

 私は中学生の頃は文学が好きで、中就、石川啄木に傾注していて、中学三年から日記を書きかけ、現在も毎日書き続けています。その間五十年以上に渡ってきました。その間に感動を受けた日には詩、和歌、俳句などを記述したりしてきました。さて、それが親の方針にしたがって自分の心と全く違った薬学専門学校に入る事になり成績はサッパリでした。太平洋戦争中でしたから、おなさけで卒業して、昭和二十年一月に名古屋城内にあった、中部第二部隊、いわゆる軍隊に人営しましたが、八月十五日には終戦になり、空襲で転々とした我家に帰ることが出来ました、日本国中が疲幣しており、何をやると云う正確な目標はありません、始めの内は焼跡の畑を耕して芋や麦の農作業をしたりして、口腔をしのぎ、やがて若者の出来る連び屋になったり、薬屋になったり、その当時のヤミ屋をやって時をすごしている内に、昭和二十三年の始めラジオで教員の募集があって、応募したら口答試問等で簡単に入れる事になりました。当時六・三制に教育制度が変って、毎年沢山な教員が不足していましたから、学校さえ出ていれは誰もが簡単になれた時代でした。それが私にとっては、やっと落着いた就職でした。

 新制中学の理料の先生になれたのです。クラブ活動も始めはスポーツをやっていましたが、やがて授業後は理科の先生らしく「自然観察」の方へと眼が向くようになり、名古屋市の東部の城山中学の学区内には有名な東山公園や平和公園があり、全く自然には恵まれた地域でした。動物植物鉱物とよく採集したりしました。その中で社会に役立ったのが一つありました。それは、東山公園の池の深度調査でした。ボートを借りて竿で一々深さを測り池の底の形を作図したものです。昭和二十七年の冬休みにやったものですが、昭和六十年頃ボートハウスから電話があり、あの調査図を元に底ざらえをすることにしましたと、伝言がありました。

 丁度その前、昭和二十七年の十二月のある日、生徒が一片の土器片らしきものを持ってきて、「山て拾ったのですが、これは何んですか」と質問して来ました。私は見たこともないが、人工的なものであるからと、社会科の先生方にも聞いてまわったが、はっきりしなかった。山野を跋渉し、自然観察を得意としていた私は、その日の授業後に、生徒達とその山に向いました。そこには山を開墾して畑になっているが農耕のじゃまになる石ころと共に、その土器片が山積みにしてありました。その後土器片の沢山に埋っている所も見つかり、これは学術的に価値のあるものではないかと考え、何んとか、土器片の正体を知りたいと考え、つてをさがして遂に、その翌年、名古屋大学考古学研究室の澄田正一先生にご指導を受けることが出来ました。「そのものは考古学上て縄文、弥生時代に続く古墳時代以後に生産され、使用された須恵器と称せられる土器片」であったのです。そして今一つの言葉は「土器片があっち、こっちに出土するならば、それらの分布調査を続けて下さい」と、そうして私は動物植物鉱物の調査をすえ置き、土器片の散布地をさがし求めて、学区内の東山に自由ヶ丘にと毎日クラブ活動で歩き続けました。道路は開け宅地が造成されて行く、その折に土器のザックリつまっている所が発見され、そしてセメントの中に、家の下に隠れて行き、歳月と共に「東山古窯趾群の分布図」となって来たのです。

 そうして東山古窯趾群の研究は名大の考古学研究室の楢崎彰一先生、大参義一先生や、名古屋市文化財委員の吉田富夫先生のご指導を受けて、幾度か発掘調査も致しました。

 先づ最初は昭和二十八年三月に千種区日和町のH3号窯(Hは東山の頭文字、数字は発見順としました)を手始めに、三年に一度位ずつ発掘調査を続けました。

 そうこうしている内に、昭和三十一年より愛知用水工事が行なわれる以前にと、名大考古学研究室によって、尾張と三河の国境にそびえる猿投山の西、即ち尾張側に位置し、瀬戸焼の歴史以前の時代、日本陶磁史の空白になっていた平安時代を埋めると云う、重要な意味をもつ、猿投西南麓古窯祉群(略して猿投窯)の調査が始まって、それに私も参加さして頂き、発掘調査の方法など色々とご指導を、身をもって受ける事が出来ました。と同時に猿投窯の調査研究の内の更に平安時代より以前に存在した須恵器部門、即ち古墳、白鳳、奈良時代と云った古い時代に、末盛と云う地名で、末森城・城山中学校・学区内に存在し、それを私が研究していた事になり、日本の考古学研究の一端をになっていた事に大きな喜びをきんじえませんでした。

2 博物館の建設

 昭和三十年の夏休み上高地に行った帰り路、長野県茅野市尖石遺跡を訪ねる事が出来ました。尖石及び与之助尾根遺跡のすばらしかった事は勿論ですが、私の心をとらえたのは、この研究に生涯を捧げられた宮坂英弌氏であった。当時、宮坂さんの屋敷内に尖石館と云う博物館、小さく、粗末な納屋を改造した建物であったが、中には縄文時代中期の見ごとな土器がぎっしりとつまっていました。これが個人の人間わざとは思われませんでした。その日はお見えにならなかったが、私はどうしても宮坂先生にお会いしたいと願い、一晩民宿に泊って翌朝一時間程、お話を聞く事が出来ました。

 先生の人間性に打たれたと云うものでしようか、私が博物館を建てようと考えついたのは、この時でした。尖石館は昭和三十一年には公立「尖石考古博物館」となり、町立から市立へと建物も鉄筋コンクリートと建替える度に大きく成長して行きました。

 私は学校に於いては理科の教師でしたから、動物植物鉱物の標本を並べる学校博物館と云うものに気がついたのです。夏休みが終って夏休みの作品展が学校内で開かれると、誰が昆虫採集に熱心であったか、誰が植物採集か、誰が化石採集かと、私のノートに記録されてゆく、そして理科の先生方と相談して、理科準備室に展示ケースを並べて貰う事が決まりました。そうなってくると、学校全体も、その流れにそってくれる事がしばしば起きてきました。それは全校生徒から動物植物鉱物の採集旅行の募集をよく実施しました。生徒達も日曜日を利用した学校行事であったから、常に観光バスの場合は満員であった、その時には先生方も必死で学校標本を得る為に採集しました。そうして標本室は一杯になり、廊下にも展示棚を次々と拡大して行きました。

 勿論、学校中が自慢となり、他校の先生方を呼び集めて研究発表会を開いたりして、全く活力もあり、学校教育で優良校へと登りつめて行きました。

 理科の標本の内、私のコレクションは岩石・鉱物が一番多かったのですが、学区内で毎日採集して歩けるのは、やはり考古学の須恵器と山茶碗でした。これは古窯跡と云われる遺跡で5世紀から13世紀迄に釉薬を使わない素焼の焼物、即ち須恵器と山茶碗を焼いていたトンネル窯をさします。この遺跡を発見すれば宝物がザックリとつまっているのです。古窯跡は次々と発見できましたが、発掘となると中々に踏み切れません、昭和三十三年の五月から発掘調査を始めたH27号窯は余りにも古窯跡が大き過ぎて、我々中学生のクラブには、もてあましてしまいました。夏休み中も発掘し続けていましたが、生徒はへってゆき、先生一人の時ばかりでした。途中で棒折るわけにもゆかないし、全く菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の了海和尚を思い浮べて、現代版で云うならフィリッピンで三十五年間戦い続けた小野田少尉ですね、全く孤独との戦を続け、八月末に完了した事もあり、常に苦難の連続でした。そうして東山古窯祉群の資料は着実にふえ続けてゆきました。

 昭和三十六年秋、東海地方に伊勢湾台風が吹き荒れて全く苦難の年となったのですが、私もその夏から新しいマイホームを建てゝいました。新築中の家の屋根が吹き飛んで大きな被害を受ましたが、年末にはどうにか完成をしました。その設計において私は土地の半分をあけておいたのです。それは半分の土地に将来、博物館を建てたいと考えたのです。この辺から家族と云っても妻と母親との協力が大きく影響し始める事になりました。

 昭和四十年八月熱田図書館で私のコレクションのうわさを館長であった服部鉦太郎先生に伝わって行ったのでしよう、「東山古窯趾群出土品展を開いて下さった。私の喜びも一潮でしたが、此処で考えれた事は、展示品の量などから、もうミニ博物館なら開設出来ると云う勇気が湧いてきたのでした。

 昭和四十四年の正月から鉄骨造りのミニ博物館の建設が始まりました。昭和三十年から心に暖めていた博物館の開設へと心は踏み出したのです。費用は私の貯金の範囲ですから、誠に小さく、始め建物の上に塔が乗っていたのですが、費用の関係で、それも消え、設計図も段々簡略化されて行きました。私も出来得るかぎり手伝って、一歩一歩と出来上って行きました。その二年間に名古屋市内において、熱田神宮宝物館と加藤民芸美術館が完成し開館が報道され、どんなに心があせった事でありました。然し発願から十五年目、即ち昭和四十五年十月三十一日、文化の日を直前に、千種区に文化の灯、ミニ博物館「荒木集成館」は遂に孤々の声を上げたのです。

3 地域の文化をみつめた二十年

 昭和四十五年十月三十一日ミニ博物館、荒木集成館は地域の文化をになって創立されたのです。報道機関は一斎に賛辞を送ってくれました。当時名古屋市立川名中学校の教員でしたから、土曜、日曜のみ開館していました。中学生を始め沢山な小中高校生が見学に来てくれました。教育普及の方法として、見学のパンフレットを発行しました。今もそれは続いています。そのNo1に運営方針として、社会人の中には趣味の段階を越えた尊い余暇の善用に励げんでおられ、学術的なコレクションを温存しておられる方々の為に、この集成館の名前の通り、入り替り展示致します、研究者は申し出て下さいと宣言致しました。それが日本博物館協会の理事であり、愛知県博物館協会の発起人であられた広瀬鎮先生のおっしゃる「博物館ギャラリー」となって二ヶ月に一度ずつ中身の全々違った人と物が並ぶ事になりました。即ち社会科学と自然科学が大体交互に並び、例へば、四・五月に考古学を展示すれば、六・七月は岩石鉱物と云った調子ですが、展示品は昆虫とか化石のコレクターが多い事もわかって来ました。

 そして見学者が、やがて展示者になれると云う、人間的な成長、学校教育しか知らなかった生徒達も社会教育の場に参加できると云う楽しさ、展示者が変ると、見学者も変ってくる、見学者の輪の広がり、子供から大人までの共通の話題、知っている人が先生と云う学問の世界、荒木集成館は遊び場であり、勉強の場である。館長がいなければ奥さんが副館長であり、展示者は説明者であり、楽しい語らいの場、即ちコミニティーセンターでもあった。その荒木集成館で育って行った若者の中から、博物館学芸員になったのは現在、愛知県ばかりでなく他県も含めて七名います。更に大人の影響は荒木集成館で展示会を開いた人々の社会への貢献度と云えば、展示者の中に幾人かが故人になられた方もみえ、彼等の貴重なコレクションは名古屋市博物館に寄贈され展示室に並べられています。特に思い出深いのは、瑞穂区の弥生遺跡の調査研究を生涯続けられた、北村斌夫先生の展示会の時の事でした。展示開館の一週間程前に先生が急逝されてしまいました。北村さん宅から「遺品について全々不明ですがどうしましょうか」と云う電話がありましたが、私は葬式に参列して「遺品については全部聞き書きしておきましたからご安心下さい」と答れました。集成館パンフレットは、健康な人は自分で、故人になった人には、私の力の及ぶかぎり物について研究して記載しているつもりです。更にすばらしい事は、展示者の中から、成田陽先生は、中川区小本町に古書収集の成田文庫を設立され、今一人宮島照さんは名東区松井町に考古と刀剣の収集品で宮島資料館を設立され、地域文化に貢献されています。

土器のかけらに魅せられて

 昭和五十三年十二月には千種区から天白区中平五丁目に引越してきました。この事は荒木家全体の浮沈にかゝる事であったから、家族の承諾を得て実行致しました。荒木集成館も個人の持物から一歩前進して財団法人に昇格し、建物も十坪から百坪と大きくなりました。今迄一番慾しいと感じていた、集会・研究会の出来る教室も出来ました。そして現在は展示室も一つふえ二つになり、一つは常設展、一つは希望者の展示室と、段々理想の建物へと発展して来ました。

 さて館の将来はどの方向に進めて行ったらよいのでしようか、

 私がこの四十年間研究し続けて来た「東山古窯趾群」と云う学術本を何んとしても完成しなくてはなりません、次に私の考古学研究に於いて、やり残しているものは、現在弥生時代遺跡上に名古屋市考古資料館が立っている南区見晴台遺跡の六・七・八次発掘調査報告書、続いて平安時代末の瓦生産の古窯跡群である天白区八事裏山の発掘調査の総まとめ、更に昨年末迄発掘していた、弥生時代後期で方形の墓の集合地である熱田区西高蔵遺跡の総まとめと、いづれも数年の歳月をついやして調査したものであるから人生の総まとめをせずば、許されないものばかりであります。

 最近はテレビや漫画の時代になってきている、その世の中に迎合してゆく方法として考えついたものは、学術書の次に、シナリオを書き、次に絵物語を描き、更に漫画にと、地域に残る尊い歴史を民衆に広めてゆきたいものです。現在集成館にある土器を木版画にして手摺りしている、これも教育普及の一つの方法であろうか、昨年やれた事は集成館の表に私の作詩した歌碑を建立しました。これは千種区に地名として唐山町と末盛通が残っており、東山古窯趾群の歴史を物語る和歌であります。

 「唐山に韓(から)人来たり須恵器焼く、今尚残る末盛の里」

荒木實先生御夫妻に魅せられて

 毎年、南山大学で博物館学芸員の資格取得をめざし学ぶ若い学生たちを、荒木集成館へつれて行く。荒木實館長夫妻にお会いし、博物館資料の数々に接した学生たちの感激は、私にも強く伝わってくる。“ぜひ又荒木先生を訪れ、激しくかつ優しい心に触れたい”という彼等の声に接することが多い。

 先生は、きまって“土器のかけらに魅せられて”と題した荒木集成館のそもそもの成り立ちについて、とつとつと語られるのだ。先生と土器の劇的な出合いから始まって、市民自からの力によって創り出された、私蔵から公蔵へ、そして研究の発展と共に着々と充実して行く、市民への解放ギャラリーをもつ生涯学習の時代のこの博物館の力一杯の発展の姿を学生たちは、目の前にするのである。

 先生の発見になる東山古窯祉群出土器や、周辺、地域社会内の考古資料へ寄せる思いは、若者たちにも伝わってくるのである。発掘調査や、出土品の修復に、そして展示企画と、休む間もない博物館の運営に先生は精根を傾けておられるがその先生を奥様も力一杯支援なされている。近年、新しく展示室が、増築された。そして幅ひろい古文化の見事な資料展示がはじめられたことは何よりも喜ばしい。この地域社会の文化装置の発展を心から望むものである。

 荒木實先生御夫妻のますますの御発展を祈って止まない次第である。

広瀬鎮(名古屋学院大学教授)