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 荒木集成館の創設者、初代館長であった荒木實の経歴を紹介します。

荒木實 (あらきみのる)

荒木實

 大正11年(1922)4月21日〜平成17年(2005)8月27日

 荒木集成館創設者

荒木實

1995年 第36回 CBCクラブ文化賞(くちなし章)受賞

CBCクラブ文化賞

受賞対象:東山古窯址群研究家

受賞理由:名古屋の「東山古窯址群」の調査・研究を続け、大著「東山古窯址群」を刊行

 

 表彰のことば 荒木實さま

 生徒が拾い来たった一片の土器より考古学への関心と興味を激発され千種區昭和區天白區にまたがる古窯址群渉猟踏査すること四十年余さきに私費を投じて「荒木集成館」を開設し近くは「東山古窯址群」の貴重な研究書を完成してなお窯址及び出土品の形態を深く極めんとする考古学者それはあなたです

 そのひたむきな精進をたたえここにCBCクラブ文化賞を贈ります

 平成七年二月二日 CBCクラブ

表彰状CBCクラブ文化賞:http://hicbc.com/whatscbc/cbcclub/list/list.htm

荒木實氏の急逝を悼む 岩野見司 日本考古学協会会報No.156(2005.12.1)より

 (財)荒木集成館理事長・館長荒木實氏が、2005年8月27日83歳の生涯を閉じられた。氏は1944年9月名占屋市立大薬学部の前身校名古屋薬専を卒業、45年1月入営。復員後48年2月名古屋市立城山中学校の教員となる。55年夏、尖石考古博物館を見学し、宮坂英弌館長の話を聴き、自力で博物館建設を決意される。70年10月ミニ博物館荒木集成館が誕生した。

 その後施設は、市内天白区の現在地に移転。展示品の中心は氏の考古学研究の原点名古屋東山古窯址群出の須恵器、12世紀の経筒外容器や瓦類である。94年『東山古窯址群』の大著を発刊される一方、歌集『木の実集』も上梓された。氏が指導された中学生は、今や学界の中堅として県内外の博物館などで活躍中である。泉下の氏の温顔が浮かぶ。(岩野見司)

〈荒木實経歴〉

大正11年(1922)4月21日名古屋市中区に生まれる
昭和4年(1929)4月名古屋市立大成小学校入学
昭和16年(1941)4月名古屋薬学専門学校入学
昭和20年(1945)1月中部第二部隊入営
昭和22年(1947)11月丹羽定子と結婚
昭和23年(1948)2月名古屋市立城山中学校教諭に
昭和27年(1952)12月東山古窯址群を発見
昭和30年(1955)4月名古屋市教育研究員に受かる
昭和36年(1961)4月名古屋市立川名中学校へ転勤
昭和45年(1970)10月荒木集成館を創立
昭和48年(1973)9月名古屋市立天白中学校退職
昭和52年(1977)5月南山大学にて学芸員の資格取得
昭和53年(1978)12月財団法人を設立、天白区に移転
昭和60年(1985)5月名古屋考古学会会長に選出される
平成6年(1994)4月東山古窯址群」を出版
平成7年(1995)2月CBCクラブ文化賞を受賞
平成11年(1999)3月荒木實・喜寿展を開催
平成16年(2004)11月名古屋のやきもの〜荒木定子コレクション〜」発行
平成16年(2004)11月12日荒木定子 永眠
平成17年(2005)8月27日荒木實 永眠

荒木實館長と定子夫人が遺したもの 水野知枝 きりん荒木實追悼特別号(2006年6月)より

 荒木集成館は、荒木實が個人で設立した博物館である。愛知県名古屋市千種区大島町で、昭和45(1970)年10月31日、ミニ博物館として開館した。その後昭和53(1978)年12月14日、現在の場所(名古屋市天白区中平5-616)に移転し、財団法人となった。実館長は、集成館という名に表されるように、あらゆる収集品(コレクション)を展示・紹介する博物館にしようとしたのではないだろうか。

 この博物館の中核となる展示品は館長荒木實が発掘収集した考古遺物で、名古屋市内の遺跡で発掘された出土品、特に名古屋市千種区、昭和区、天白区にまたがる遺跡「東山古窯址群」の遺物を中心に展示している。

 今回は、荒木集成館の展示や所蔵品と共に、実館長・定子夫人のこれまでについて振り返りたい。

千種区の旧荒木集成館について

銅のレリーフ
リレーフ

 今年8月、千種区の旧荒木集成館が取り壊されることとなり、旧集成館にあった所蔵品や、実館長・定子夫人が昔使っていた道具類などを移動した。その中には戦時中のものや、館長が収集していた鉱物などが数多く眠っていた。館長は亡くなるその日までこれらの資料の整理を行っていたが、それが中途になってしまい、非常に残念である。

 実館長と定子夫人の旧集成館への思いは強く、原点であるという気持ちは強い。旧集成館を運営していた頃は、学校の教師と博物館の運営を両立して、精力的に活動していた。

 平成11年(1999)3月、実館長の喜寿を記念する会が荒木集成館で行われた。その際、来年にせまった荒木集成館設立30周年を祝い、銅のレリーフが披露された。そのレリーフには、荒木集成館の設立日が書かれ、その上に若かりし実館長と、定子夫人が描かれた。そして2人の背景には、両名の強い意向で千種区の旧荒木集成館が描かれた。

展示について

・常設展への思い

常設展示室
常設展示室

 博物館が作られて以来、常設展示されているものは、ほとんどが実館長が自ら名古屋市内で発掘、収集したものである。

 もともと、中学校の理科教師であった荒木實は、はじめ考古学に興味が無く、その学問について全く知らなかった。しかし1952(昭和27)年、生徒が拾ってきた一片の土器に興味を引かれ、考古学の道に入っていった。

実館長が博物館を作ろうと思ったきっかけは、これら考古資料の存在である。1955(昭和30)年8月、長野県茅野市の考古博物館「尖石館」(現:茅野市尖石縄文考古館)を訪れたとき、自分の力で博物館を建てた宮坂氏の業績の尊さに心打たれ、宮坂氏の生き方に自らを重ねたこともあってか、自分で博物館を建てることを決意したのである。

東山古窯址群の須恵器
須恵器

 その後、実は数多くの遺跡の発掘調査や、古窯の研究を行った。それと同時に各時代の史料の収集も進めた。理科の専門分野が地学だったため、フィールドワークを通じて名古屋市内の地質と、遺跡の分布を長期にわたり調査した。中でも、名古屋市東部(名古屋市昭和区・千種区・天白区など)の古窯群の調査を精力的に行い、結果、その調査地域を総括して「東山古窯址群」と言われるようになった。

 東山古窯址群は猿投窯の一部とも言われ、東海地方で最も早い時期に作られていた窯跡の一つである。猿投窯は、尾張東南部の一帯にある大古窯跡群で、古代から中世にかけて窯がつくられた。現在は約1000基ほどの窯跡が知られている。須恵器や灰釉陶器、雑器などが生産された。猿投窯で見つかっている古墳時代の須恵器窯のほとんどは、東山地区から発見されたもので、猿投窯で最も古い時代の窯もここで見つかっている。

 その研究成果をまとめ、本「東山古窯址群」を出版した。これによって長年の研究の功績が認められ、CBC文化賞を受賞した。館長は中学校を退職してからも発掘調査を行い、私が学芸員として就職する少し前まで続けていたようである。

・特別展示の経緯

 荒木集成館では、開館してまもない頃から、他の研究者による展示会を開催している。初期は考古・鉱物・動植物などの展示が多く行われていた。しかし、千種区の旧荒木集成館の展示室が、一室のみだったため、館長の考古資料と、研究者の展示がゾーンに分けて展示されていた。

 天白区の現荒木集成館は、1階が特別展示室、2階が常設展示室となっている。しかし新集成館も、以前は2階の展示室しかなかった。2階の展示室一室だけでは、旧集成館と同じで、他の人との展示と共有となり、互いの展示が共に手狭な印象になる。そこで、1991(平成3)年4月1日に、1階に第2展示室を増設した。

 なぜ、このように当館では開館当初から広く研究者や、一般の人々に展示する場を作ったのだろうか。それは館長自身が一般の研究者であったからだという。学術・研究機関や博物館などの研究者であれば、自分の研究や成果を発表する場が、たくさんあるが、一般の人には少ない。そこで作られたのが、一般の人でも正式な博物館で展示することができるという展示スペースだったのだろう。

 現在特別展示室では、2ヶ月交代で年6回、展示会を開催する。化石・陶磁器・民俗など、ジャンルを問わず様々な展覧会が行われている。一般の収集家や研究者など多くの人が、自分の研究、趣味、収集などの長年の成果を発表している。

名古屋のやきものについて

 名古屋のやきものは、荒木集成館の所蔵品として、名古屋の考古資料の次に挙げることができるコレクションだ。荒木集成館が天白区に移転した頃、実館長の考古史料だけでは展示として物足りなくなるだろうという定子夫人の提案があり、名古屋のやきものがコレクションされはじめた。荒木集成館は、あくまで郷土の博物館として地元に関係のある史料を集めていこうというのが、2人の考えである。この当時、定子夫人が、初めて名古屋のやきものに触れ、そのすばらしさに感銘を受けていたという事も大きいだろう。

 「名古屋のやきもの」とは、江戸時代から昭和にかけて、名古屋に住んでいた人々が製作したり、名古屋市内の窯において作られた作品を指す。定子夫人はこれらを幅広く収集し、定期的に展覧会を行った。所蔵品展「名古屋のやきもの」は7回を数えた。そして平成16年(2004)、定子夫人の名古屋のやきものコレクションを集め、図録「名古屋のやきもの」を出版した。

 以前から名古屋のやきものの本を作ったらどだろうという提案はあった。定子夫人自身も作る意欲はあったが、出版はまだ先という気持ちだったようだ。しかし、定子夫人が病に倒れ、自分が元気なうちに本を作ろうという気持ちが強くなり、この本の出版が決定した。私が以前から資料整理のために作っていたパソコンのデータと、定子夫人の収集した文献などをもとに、1年かけて製作された。結果、2004年11月3日、無事本が発行され、10月に行われた出版記念会も盛大に行われた。

 残念な事に、定子夫人はその2週間後に亡くなられたのだが、その直前まで新聞社の取材をいくつも受け、本の出版と反響を非常に喜んでいた。

2人の素顔

 実館長と定子夫人は生涯、脇目もふらず、博物館にすべてを捧げてきたように思う人も多いかもしれないが、2人とも多趣味で、積極的に他の事にも挑戦している。

つまみ画の作品
つまみ画

 実館長は、俳句・版画・絵・陶芸・木彫などを楽しみ、平成11年3月〜4月におこなった「荒木實・喜寿展」でその多くが展示された。

 また、若い頃は旅行も好きだったようで、色々な場所へ行っている。教師時代は中学校の生徒たちと一緒に、鉱物採集旅行や海水浴など積極的に課外活動をしていた。

 日記も昭和20年から書き始め、戦争中でも日記は欠かさずつけていた。数年前に、この日記を「兵隊日記」としてまとめたが、館長自身、発行はそのうちにと思っていたようでこれについては未刊行である。俳句やエッセイ、紀行文なども本にして発行したり、小部数印刷して身近な人々に配ったりして楽しんでいた。

 当館の所蔵品にはそれらの館長の作品や、戦時中の道具、鉱物資料などがのこされています。

 私が見た、実館長は非常にのんびりとしていて、博物館業務は館長が中心となって行っていましたが、家の事はすべて定子夫人にまかせているようだった。

 定子夫人は、手先が器用で、料理や裁縫などが得意だった。昔、まだ洋菓子がめずらしかった頃、シュークリームを作るなど、子ども達によくお菓子や料理をふるまっていたそうだ。また、子どもに作り方を教えたりもしていたようです。

 つまみ画はとくに定子夫人が得意としていたもので、三密手芸研究会の講師をしていたという。つまみ画は、小さな布を折りたたんで、紙などの上にはりつけ、立体的な絵を描くもので、手先の器用さと、細かい作業が要求される。以前「荒木定子つまみ画展」が当館で開催されたこともあった。当館には現在でも数多くのつまみ画の作品が残されており、実館長の作品と共に、本年7月〜8月に、このつまみ画の展覧会を行う予定だ。

 普段の定子夫人は、特に買い物など常に外へ出かけるのが好きで、とても行動的な方だった。人の事を常に気遣いながら、てきぱきと物事とこなし、記憶力・体力共に、若い私が負けそうな位いつも精力的だった。

おわりに

 私が大学を卒業し、荒木集成館に勤務するようになって8年になります。その間、荒木集成館では数多くの展示会があり、また、色々な出来事がありました。荒木實館長と定子夫人には、生前公私共にお世話になりました。定子夫人は平成16年(2004)、実館長は平成17年(2005)と、立て続けに亡くなりましたが、2人は生涯仲の良い夫婦であったように思います。定子夫人が亡くなった後、館長が「あれほど出来た嫁はいない」と言っていました。その感謝の気持ちからも、2人の絆を深く感じることができました。

―荒木集成館 館長荒木實・定子夫人を偲んで― きりん荒木實追悼特別号(2006年6月)より

荒木集成館開館(昭和45年11月)
開館

荒木正直

 去る8月27日、館長荒木實(理事長)が急逝いたしました。おかげさまで叔父実の葬儀も無事終わりましたこと、ひとえに皆様方のおかげと感謝しております。今後とも何かにつけお世話になることも多いかと存じますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 考古学の博物館である荒木集成館の設立は、昭和45年11月、名古屋市千種区大島町の自宅に開館したのに始まります。昭和53年に中平5-616に移転して、ミニ博物館から財団法人荒木集成館になりました。平成16年11月に亡くなった叔母の定子は、長年かけて集めた「名古屋のやきもの」コレクションの集大成として、本を出版し、夫婦2人幸せな人生でした。

 今後の財団法人荒木集成館、どうかよろしくお願い申し上げます。

 

 

荒木先生と私 水野裕之

 荒木集成館が先生の自宅の千種区大島町に開館したのは1970年の11月だった。当時、私は12歳の小学6年生で、先生の家から10分程のところに住んでいた。私の兄は、中学で荒木先生の理科の授業を受けていて、兄から荒木先生が考古学に熱心なことや、特に優しい人柄の先生との話を聞いていた。石器や土器、化石や鉱物、昆虫が好きだった私は、集成館の開館を楽しみにしていた。荒木先生から石器や土器を手に持たせてくれたときの感覚は、今でもはっきりと記憶に残る。集成館では、考古資料だけでなく、岩石、化石、植物などさまざまなコレクション資料が展示され、月に何度も足を運んだ。奥様からは、日に何回もお茶とお菓子をだして頂いた。中学生になったときは、荒木先生は別の中学校に異動になってしまったが、先生の愛車ホンダN360に乗って行く見晴台遺跡の発掘にもさそって頂いた。私は今、この見晴台遺跡にある考古資料館の職員になっていた。

 ありがとう。荒木先生・奥様。

「荒又会」で先生を偲び続けたい 近藤雅英

「東山古窯址群」出版記念会(1995年2月)
出版記念

 荒木先生からいただいた五十年前(昭和三十年)の年賀状が私の手元にある。松竹梅に旭日の絵をあしらい、添え書きに、正月二日のクラス会の案内がある。会場は城山中学の作法室、百円位の飲食物の持ち寄りといった内容。

 郵便ハガキが四円の時代である。会は通称「荒又会」、先生担任の城山中学昭和二十七年卒業三年B組のもの。「荒又」は、かの三大仇討ちの一つで知られる荒木又右衛門と同じ姓から、付けられた先生のあだ名だ。

 「荒又会」は、翌年から千種区日岡町にあった先生のお宅を提供していただいて、毎年正月二日に開かれ、お宅が大島町に移っても続けられた。昼の二時から夜の十時ごろまで先生と一緒に騒いだ記憶がある。奥さんの定子さんにも大変お世話をかけた。そのころ先生は、「時間がいくらあっても足りない。人間は、何故寝なければならないのか」と日記に書き、寝る間も惜しんで、考古学に打ち込んでおられた貴重な時間を、奥さんともどもに、私達に割いてくれていたのだ。

 私は、昨年三月に、先生への敬慕の念を込めて「小説・荒木實集成館」を出版したが、はからずも墓標になってしまったのが残念でならない。「荒又会」はこれからも、先生御夫妻を偲ぶ会として続けたいと思う。

荒木實館長・定子夫人の業績 学芸員 水野知枝

近年のスナップ
荒木夫妻

 荒木集成館は、館長荒木實が中学校の教員をしながらも、博物館を作る夢を貫き、情熱を持って作った個人博物館です。館長は、荒木集成館に生涯現役として勤めました。

 荒木集成館は、館長が名古屋市内で発掘、採集した考古遺物や、定子夫人が収集した名古屋のやきものなど、地域の収蔵品を中心に紹介しています。館長と館長夫人は、地域に親しむことによって、身近に当時の生活や文化、歴史を感じて貰おうとしていました。

 展示も、収蔵品の展示会だけではなく、一般の多くのアマチュア研究者たちの展示会が行われてきました。それは、館長自身がアマチュア研究者であったため、多くの研究者に広く成果を発表する場を与えたいと考えたのでしょう。その結果、開館当初から現在まで、ジャンルにとらわれない様々な展示会を行ってきたのです。

 館長の人生は、生涯学び続けてきたように思われます。地質調査や、東海地方での鉱物や石器の採集、名古屋市内の遺跡の発掘調査や研究を続けました。特に、名古屋東部の古窯、東山古窯址群の研究を何十年も行い、「東山古窯址群」を出版、それが評価され、CBCクラブ文化賞を受賞しました。

 また、定子夫人も、貴重な地域コレクションをまとめ、図録「名古屋のやきもの」を残しました。夫人は、人との出会いを大切にされる方でした。

 私自身、荒木集成館に勤務したことで、学んだ事は数え切れません。これからも今までと変らず、地域にあり続ける博物館として、荒木集成館をよろしくお願いします。

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